2011年10月25日火曜日

アリ塚の風景(想いで話)

二十数年前、南米のパラグアイという国で3年間過ごした。就職先がなかなか見つからず、青年海外協力隊に応募して任地となり(各国から職種を指定して募集があるので、自分で行き先を決めれない)、日本から派遣されたボランティアとして現地の農学校で教えていた。現地人も相当の技術力はもっているし、自分は実社会経験がなかったので、何かを教えたと言うより『良い体験をさせてもらった』と思ってる。バスで移動する風景の中に必ずアリ塚があった。けっこう大きくて草原の地面からニョキニョキ出ていた。とても硬くて素手では壊せないし、穴を開けるとすぐにアリがゾロゾロ出てきて修復してしまうのをずっと見ていて飽きなかった。発展途上国とは言っても飢えているわけでもなく、みんなそれなりに働いて生活を楽しんでいるようだった。物があれば幸せというもんじゃないんだなァーと漠然と感じたことを憶えてる。

2011年10月24日月曜日

不義な満足感より良心の呵責

「自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、その良心の呵責からくる苦痛の度合いの方がはるかに大きいということを悟るときには、決してその隣人を害することができない」【原理講論-総序より】よく『地球村』という言葉を聞くが、皆本心では人類は平等であるべきと考えている。罪のない世界=天国が、この地上に現実世界として建設されるためには、新しい真理が必要になる。この真理は神の啓示として我々の前に現れ、宗教の問題を含む根本問題を解くものでなければならない。地上天国が実現すれば、人類は兄弟となり国境も不要となるし、そもそも争う必要がなくなる、、、。もし、新しい真理がすでに再臨主によって明かされているとしたら、地上天国建設がもう始まっているとしたら、、、それをただ傍観するか、それとも同参するか、、、正に最後の審判なのではないでしょうか。

2011年10月23日日曜日

俗人と道人(総序より)

「肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べものにならない。」【原理講論-総序より】これは現代の物質文明社会の中で精神的豊かさが見直されていることと一致する。科学が発達しても人間の精神的欲求までも満たすことはできず、宗教も現実を離れ心霊的な喜びのために肉身の幸福を否定してきたが、無能化してしまった。よって、科学の対象は内的な原因的な本質の世界へとその次元を高めなければならない段階に入ってきている。また、宗教においても信ずるということは知ることなしにはあり得ないので、論理的で科学的なものでなければ、その目的を達成することはできない。「いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる、新しい真理が現れなければならないのである。」【原理講論-総序より】なんて壮大なロマンなのだろうか!

2011年10月20日木曜日

原理にはロマンがある

人は誰しも「真理」を求め、争いのない平和を願います。統一原理の核心は文鮮明師に啓示された内容であり、それは地上天国の実現のための新しい真理であるという。例えばそれは「すべての主義・思想・宗教を統一する真理でなければならない」とか「人生と宇宙に関する根本問題はそれを想像し給うた神がどのような方であられるかを知らない限り解くことができない」などスケールの大きさを感じざるを得ない。こんなにもワクワクする面白い内容を自分ももっと深く理解したいと特に最近思うようになりました。

2011年10月16日日曜日

自分の行くべき道

 このブログを立ち上げたとき、自分用のものとして何か思いついたことを書き留めておいたり、自分の考えや想いをいつか家族に伝えるのに良いかなというぐらいの考えだった。ただしブログとして公開しているのでいつ誰に観られているかも知れないことは分かっていたし、ある程度投稿していると自分のメッセージを多くの人に伝えたいという想いが湧いてきました。そして、今日の聖日礼拝の説教を聞いて「これが自分の行くべき道」だと感じました。ですから今後はより多くの人に伝えるメッセージを投稿していきます。それが世界平和の実現を願う者としての、統一教会員としての、再臨主が今地上世界に生きていらっしゃることを知った者としての、『使命』だと感じるからです。

スマホと先入観

  「スマホは使いこなせないから不要」という言い方が妙に気になった。例えば10という能力を持つ普通の携帯電話を90%使いこなしていれば9の能力を使っていることになる。でもスマートフォンに100の能力があれば10%しか使いこなせなくても10という能力が使えることになる。実際の能力を数値化したわけではないが、問題は「使いこなせるかどうか」ではなくて「どれだけの能力を使えるか」なのに「使いこなせなければ意味がない」という先入観のようなもので自分にブレーキをかけてしまうこと。ひょっとしたら無意識のうちに自分も先入観(もしくは変なこだわり)にとらわれて、大きなチャンスを生かせなかったことがあったかもしれない。これからは自分の成すべきことに向かって純粋な気持ちで、ひたむきに進んで行きたいものだ。

2011年10月13日木曜日

原理は難しいか

原理はなぜ難しいのかと聞かれた。確かに普段使わない用語が多く出て来て、すぐには理解できないし、キリスト教に無縁な者には難解な表現も少なくない。ただ、全ての根本となる体系的な思想であり、膨大な内容が凝縮されているので、容易に理解できなくて当然なのではないか。それでも一生懸命に理解して周囲の人々に伝えることができれば、それこそが自分自身の喜びであり、与えられし使命でもあると考えます。


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2011年10月5日水曜日

祖父の写真

18年前、祖母の葬式が終わってタンスの遺品から出てきたのが祖父の写真だった。初めて見た「おじいちゃん」は戦争に出兵する時のような銃剣を持って立っている写真だった。それから10年後、その写真を捜して本家を訪ねたが、知らないとのこと、祖母の遺影をコピーさせて貰おうと額から出したら祖父の写真が裏に入っていた。(あの時叔父さんが入れたのだろう)何か劇的な出会いの様な感じがした。よく見ると自分に似ている、、、「良く見つけてくれたなっ」と言われた様な気がした。今のところ祖父から受け継いだ(自分の)苗字を継ぐ男子は親戚の中で我が子だけだ。自分が氏族(先祖供養)に責任を与えられていると考えて、襟を正していきたいものだ。


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